目次:

Page 1 :  「ヌーベルまんが」 言葉の由来
Page 2 :  「まんが」は女性名詞/「パパの翻訳」
Page 3 :  講談社とカステルマン社がしたこと
Page 4 :  作家のイニシアティブ/art-Link 2001/イベントを始めるきっかけ
Page 5 :  ヌーベルまんが原画展/メゾン・ド・ラ・ヌーベルまんが
Page 6 :  ファブリス・ノーのインスタレーション/日仏学院シンポジウム/プレスの反応
Page 7 :  「ゆき子のホウレン草」/まとめ

  JB - この新しいBDが日本の読者に受ける可能性があると思っているようですが、日仏両国に作家主義の作品を知らしめるという、講談社(ボードアンやバル、そして最近ではイゴルト等の作家を招待し、トロンダイム、ギベール、グッツやラバテなどのまだ生まれてまもない "インディペンデント" 系作家の作品を日本で発表)、そしてカステルマン社のイニシアティブが、なぜ、トータル的に見て失敗に終わったのでしょうか?

  FB - 全くの偶然ですが、私が初めて日本に行った1990年の夏、「モーニング」編集部(講談社)に行く機会があったのです 。つまり、同誌がヨーロッパBDとコンタクトを始める半年前のことになりますが(後に仏作家の作品を掲載した)。1993年、私は最初の西欧作家として「モーニング漫画フェローシップ奨励金」を受けました。このおかげで日本に1年間滞在し、ブノワ・ペータ−スとの共作『東京は僕の庭』のシナリオを書く事が出来たのです。
  私は講談社が最初にコンタクトを取った作家の内の一人で、おそらく一番お金がかかった相手だと思うのですが、パラドックスと言うか、にもかかわらず、私はその中で「モーニング」に掲載がなかった唯一の作家なのです。

  奨励金を受け、私は東京に住むフランス人男性の話を書くために来たわけです。日本に滞在を始めて数週間経った後、「モーニング」とフランスの雑誌「ア・スイ−ブル」に同時にこのテーマを提案しました。「ア・スイーブル」には好意的に受け入れられましたが、「モーニング」の編集からはすぐに退屈だと言われてしまいました。ミーティングの席上で彼らは私に、パリに住む日本人男性の話を面白おかしく描いたらどうですかと提案してきました。「モーニング」は私に東京での生活をルポするために1年分の奨励金をくれたはずなのに、数週間たった後、全くその逆を提案して来たのです。当然これは無理な話で、この提案には私は応じませんでした。"パリの日本人男性" のアイデアは数カ月後にアレックス・バレンヌが引き取る形になりました。(『キノ』は1994年に「モーニング」に掲載され、後にカステルマン社で出版されました。)

  カステルマン社側には、「モーニング」編集部の協力を受けて、谷口ジローとのコラボレーション(『東京は僕の庭』のトーンワーク)を、ブノワ・ペータースと私とで、提案しました。『ブランカ』や『歩く人』のフランスでの出版のアイディアが出るおよそ半年前だったでしょうか、ともかく、メビウスの『イカル』のプロジェクトがスタートする1年以上前の事でした。

  講談社とカステルマン社との2つの冒険的プロジェクトの最前線にいて、その期間を内部から見ていた訳です。とはいえ、私には当時の状況をうまく説明できるとは思えません。他の人がどうして失敗や成功したのかを説明するのは簡単ですが、新しい事を試すのはもっと難しい事です。先駆者、冒険者、開拓者には困難がつきまとうものですが、これはコメンテーターには縁遠いものです。

  先駆者として講談社「モーニング」編集部の、7年以上に及ぶ仕事は賞賛に値します。

  日本の出版社がだれも挑戦しなかった事、そしておそらく今後しばらくだれも挑戦しないであろう事を敢えてしたのです。日本の一般読者に全く違う漫画を提供することにより、日本漫画の殻を破ろうとしたわけです。彼等には成功のための切り札は沢山ありました。組織と資金、経験(80年代後半『謎の生命体アンカル』、『風の漂流者』、『ランゼロックス』日本出版の試みの失敗から学んだ戦略)、好奇心とモチベーション(「モーニング」編集者は現地に飛び、フランス人を日本に招待する事をずっと続けていました。日本とヨーロッパを何度行き来したか分りません)。そして、当然の事ですが、才能。講談社が日本に招いて出版した作家達は最も優れた人達ばかりでした。我々の最高のアーチストたちに仕事を与えるという快挙を成し遂げたのです。というのも彼等の内の多くが当時フランスの出版社にさえ全く知られていない存在でしたし、知っていたとしても良い待遇は受けていませんでした。

  私見ですが、出版社が質の高い仕事をしても一般大衆がついてこない場合、出版社だけが悪かったと責める訳にはいかないと思います。私の見たところ、「モーニング」誌上での外国人作家作品掲載の失敗は、読者側にも問題があったのだと思います。というか気狂いじみた読者マーケティングに原因があり、これは日本の漫画の編集全般に関する大きく且つ複雑な問題です。巨大発行部数の漫画誌の多くに見られるように、「モーニング」がターゲットとしている読者層はとても狭く、しかもあまりに一般的すぎる読者像なのです。この場合、どこにでもいそうな男性、サラリーマン、私の記憶が正しければ30歳、そしてもちろん日本人。このサラリーマンを地下鉄にいる 20〜30分の間、楽しませなければいけないのです。
  近所のお兄さん以上でも以下でもなく、その趣味、関心事はそれ相応の物でしかありません。往々にして、野球、ラーメン、ギャグ、大きなオッパイになります。言わば、ボードアンの『サラダ・ニソワーズ』を「モーニング」に載せて、読者層の受けを狙うのは、坂口尚の『石の花』を「エコー・デ・サバンヌ」誌(フランスの最も一般成人男性に向けられた雑誌)に載せて成功を当てにするようなものです。

  これに加えて、おそらくノスタルジーの問題があります。正確に言うとノスタルジーの欠如です。
  80年代後半になり、ようやくフランス人が日本の漫画に関心を示したのですが、これは70年代の初めから日本のテレビアニメがフランスのテレビでくり返し放映されたからにほかなりません。日本漫画のコードやテーマに子供のころから慣れ親しんだ人たちが青年になり、日本の漫画にノスタルジーを感じる潜在的な読者になったのです。
  日本においてのフランス=ベルギーBDは全くこのような状況にありませんでしたし、今後も絶対にそうはなりません。出版された作品の質がどうであれ、日本の漫画の読者は全般的にフランスBDに関して、全くノスタルジーを感じず、当然の結果として、マニア的趣味や好奇心を感じる事がないのです。日本でフランスBDが受け入れられる読者と言うのは、一般大衆向けの漫画、いずれにしろ「モーニング」、「ビッグコミック」、「ヤングジャンプ」等の限定された読者層ではなく、もっとバラエティーに富んだ、私の目から見てより開かれた層です。日常を題材にしたインディペンデント漫画の読者や、もっと一般的にはアートやフランス映画のファンたちでしょう。
  ノスタルジーは フランスBDには欠如していますが、日本で特に多いフランス映画のファンの間では目を見張るものがあります。翻訳されたBDのエスプリやテーマが先ず第一にフランス映画を連想させるのであれば、我々のBDはこの層に受け入れられ、好評を博すると思います。またそうなるはずです。

  カステルマン社の日本漫画コレクションの出版に関する彼等の中途半端な態度は別の所に理由があります。90年代にカステルマン社は全盛期の終わりを迎えました。編集者は多くのモチベーションと才能、そしてとりわけ開拓者精神を失いました。この交流は、常に講談社からの一方通行でした。おかしな事に、フランスの作家、たとえばバルやアレックス・バレンヌを相手にした場合であってもそうです。カステルマン社唯一のイニシアティブはというと、結局、ボードアンが「モーニング」に描き下ろした『ボヤ−ジュ - 旅 -』のフランス出版拒否だけではと思ってしまいます。この作品は、最終的に数年後にラソシアシオン社にその居場所を見つけ、出版されました。
  また日本の講談社の編集者がフランスに行った回数とカステルマン社の編集者が日本に来た回数を比べてみると驚かされます。今日現在、私の知っている範囲では、カステルマン社の社員、経営者のだれも日本に足を踏み入れたこととはありません。
  カステルマン社の編集責任者達は独自の漫画コレクションを創り出す事なく、単に既にある講談社の作品を扱う事に甘んじました。それに、谷口ジローの『歩く人』のような傑作と、ここでその題名をあげる事は控えますが、他の月並みな作品を同じレベルで扱っていて、とてもまともな判断をしていたとは思えません。
  作品リストの中に『歩く人』のような傑作があり、同時に「ア・スイ−ブル」誌のような雑誌を持っていると言う幸運があったのです。ちょっと考えれば、単行本として出版する前に読者に広く紹介するために雑誌の中に毎号少しづつ連載もあり得たはずです。そうすれば、フランスでは無名な日本人作家の単行本を、より広い層に訴えられたのに。

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© 2001 Julien Bastide / Frederic Boilet
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