目次:

Page 1 :  「ヌーベルまんが」 言葉の由来
Page 2 :  「まんが」は女性名詞/「パパの翻訳」
Page 3 :  講談社とカステルマン社がしたこと
Page 4 :  作家のイニシアティブ/art-Link 2001/イベントを始めるきっかけ
Page 5 :  ヌーベルまんが原画展/メゾン・ド・ラ・ヌーベルまんが
Page 6 :  ファブリス・ノーのインスタレーション/日仏学院シンポジウム/プレスの反応
Page 7 :  「ゆき子のホウレン草」/まとめ

  JB - あなたは「ヌーベルまんが」という言葉を、日仏両国のインディペンデント・シーンで活躍している作家達の作品の出版を促すための「レーベル」として考えたのですね。という事は、この「レーベル」はエゴコミックス社や太田出版の専売特許ではなく、他の出版社や、イベントに使っても構わないという事でしょうか?

  FB - それこそ私の望むところです。「ヌーベルまんが」というのは作家のイニシアティブを意味するキーワードであり、日本やフランスの他の作家や出版社のイニシアティブやイベントのために、いろんな意味で刺激することになればと思います。
  というのは、私の考えでは、インディペンデントなBDや漫画のことを指すよりは、単純に作家主義のBDや漫画を意味するものなのです。もちろん、市場原理万能主義の下では、これらの作品は独立系出版社によって出版されているのが現状ですが、例えばコゼやジャン=クロード・ドゥニなどの商業的流通市場と一線を画す、日常を描く芸術的作品だったら、日本では「ヌーベルまんが」の名の下、出版の機会があったり、イベントなどでの紹介により、人々の目に触れることがあってもおかしくないでしょう。

  JB - この「レーベル」は、グラフィックスよりは日本漫画の "ナラシオン/語り口" に影響を受けたフランスやそれ以外の国の作家達にも使えると説明していますが、誰の事を指すのですか? フランスで一般大衆が日本の漫画を見い出してからまだ10年程しか経っていませんが、日本漫画の絵のタイプだけではなく、その "ナラシオン/語り口" に影響を受けた若い作家達が既に活躍していると思いますか?

  FB - フランスのクリエーター達は日本の作家主義の漫画にますます興味を示してきてます。谷口ジロー、松本大洋や坂口尚などの質の高い作品の翻訳が影響をおよぼしています。例えば、ファブリス・ノーの作品を見ると、『ジャーナル(III)』の中のいくつかの場面や、次回作の1つのエピソード全体が日本の "ナラシオン/語り口" に影響を受けたと言えます。
  今私が期待しているのは、日本の漫画家達もヨーロッパの作家主義のBDに興味を持ち、輸入専門書店の棚をメビウス、セグレルやメタバロンなどの特定の作家だけでうめ尽くしている "フレンチコミック" という重くて、流行遅れで、陰気な枠を離れることです。

  この「ヌーベルまんが」というアイデアの根底にあるのは、出会い、交流、そして願わくば新しい作品の登場を促す事です。パスカル・ラバテやエティエンヌ・ダボドーなどの才能ある作家たちは、より正しくありのままの、ダイレクトな日本漫画の知識を得、最大限に活用することができるでしょう。同じように、もし機会があったら、魚喃キリコや古屋兎丸のような日本人作家たちも、90年代以降の我々のBDを見て、なにか良い勉強になるのではと思っています。

  JB - これは、東京の谷中と上野のいう下町でのイベント、art-Link 2001の一環として企画されたわけですが、これを企画した人達とどのようにして知り合ったのですか。また、当初はどんな予算だったのですか。また企画の自由度はありましたか。

  FB - 2000年11月のある晩、art-Linkのメンバーである友人二人と食事をした時に、その場であっという間に決まりました。実は、その1年前から、私とやまだないとで温めていた本の企画があり、その本の出版がフェスティバルの期間と重なることから、当初はその本の原稿を展示することだけを考えていたのですが、その本の根底にあった「ヌーベルまんが」という考え方に彼等が興味を示し、一連のイベントの企画を私に提案してくれたのです。

  イベントの準備期間は10ヶ月。原案、予算、スポンサーや展覧会会場探し、ボランティアチーム結成など、すべてその間に行われました。art-Linkがオーガナイズ全般を担当。2000年12月、まったくのゼロからスタートでした。当時、専属スタッフとしては、資金調達担当の三木一正、藤田敏正の二人だけで、その後、しばらくしてロジスティック担当の今野真理子が参加。彼女は、美大の学生で、私のBD作品の登場人物として何度かモデルをしてもらっています。"ゆき子" のモデルは彼女です。イベントの内容に関しては、私とやまだないとが全ての決定権を持っていました。

  JB - ということは、やまだないとと二人で、4つのエキスポとパフォーマンスを指揮し、イベントに参加する作家を選び、コンタクトしたのですか。


「ヌーベルまんが宣言」 ポスターデザイン:小島聡子

  FB - 日仏作家の作品原稿展示をイベントの中心にもって来る事は、既に決まっていましたが、私の記憶が正しければ、公開アトリエは、やまだないとのアイデアです。私は、ダビッド・B、ファブリス・ノー、ロイック・ネウーの招待を提案しました。やまだないと本人も参加の予定でしたし、もちろん日本人作家も招待するつもりでしたが、実現には至りませんでした。その数週間後、やまだないとがイベントと少しづつ距離をとるようになり、参加の意志表明はしていましたが、招待作家としてということであり、このため、私と日本人パートナーらに企画全ての責任が回って来ました。彼女は、その後また、イベントの原点であった、共著本のプロジェクトも放棄してしまいました。2001年春、「ヌーベルまんが」は私とやまだないとの "発案-刊行-イベント" という共同プロジェクトではなくなり、そのかわりに、私とart-Linkのプロジェクトになりました。

  その同時期、三木一正と今野真理子は平行して企画を進めていました。予算が確定し、最初のスポンサーと最初の会場が見つかりました。Gallery SD602 Kingyo です。公開アトリエ・パフォーマンス&展覧会会場としてスペースを提供してくれました。ここがその後、「メゾン・ド・ラ・ヌーベルまんが」になりました。
  6月には、芸大が展覧会のため素晴らしいメイン会場として正木記念館を提供してくれました。また同時に、フランスのエゴコミックス社に続いて、日本では太田出版が『ゆきこのホウレン草』を「ヌーベルまんが」レーベルで出版することが決まりました。7月の初め、10人程の "女性" 通訳を含む、約40名のボランティアが「ヌーベルまんが」のプロジェクトに加わりました。そのほとんどが19〜27歳の若い女性で、真理子が即座に "ヌーベルまんギャルズ" と命名。そのうちの一人、インテリアデザイナーの小島聡子がファブリス・ノーの個展と「メゾン・ド・ラ・ヌーベルまんが」会場デザインを担当してくれました。また、男性が一人、実はかなりの大物なのですが、我々のプロジェクトに参加してくれ、プロジェクトを軌道に乗せてくれました。建築家・ナツメトモミチで、彼には芸大・正木記念館で行われるメイン展覧会のデザインをお願いしました。

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© 2001 Julien Bastide / Frederic Boilet
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